歴史資料館 商いや賑わいについて歴史資料館 〜商い・賑わい〜

商い・賑わい

商店街の賑わい考

江戸時代の心斎橋筋の様子は、延享5年(1748)刊「難波丸綱目」に、「ぬり物屋、書物屋、古道具や、経師や、琴三味線、かざりや、其外諸商売多し」とあり、 すでに買物の町であったことがわかる。
また、「摂津名所図会」(寛政10年/1798)の中に、「心斎橋筋呉服店松屋」(現在の大丸)と題する図があり、 そこには老舗の呉服店の店頭での商いの様子とともに、バリエーションに富む人出が活写されている。
現在の心斎橋筋の賑わいにも通じる光景があった。
○で囲んだ部分が心斎橋筋(心斎橋より北側)

大坂名所一覧 9枚続きのうち1枚 「大坂名所一覧」(9枚続きのうち、1枚)

大丸を右に見た心斎橋筋。清水町通りの南東角には、天寿補元丹(薬名)の本家調合所である薬舗があった。往来には、行商人などの姿も。

寛政10年の摂津名所図会 「摂津名所図会」寛政10年(1798)

芝居見物のついでにお買物

江戸時代、傾城町である新町からこの筋を抜けて劇場が立ち並ぶ道頓堀に出られる道筋であったことから、心斎橋筋の賑わいが始まったと思われる。
心斎橋通りの絵葉書 心斎橋通り/絵葉書

江戸時代後期の新町 心斎橋筋 道頓堀周辺の位置関係図 江戸時代後期の新町・心斎橋筋・道頓堀周辺の位置関係図

昼の顔と夜の顔!?

夜店の図 夜店の図(「新吟 大津えぶし」より)

順慶町夜見世之図 歌川広重画 「順慶町夜見世之図」歌川広重画
夜の顔といっても夜店の話。順慶町通(現・南船場4丁目~3丁目あたり)には、いつの頃からか夜店が並び、その賑わいぶりには江戸から来た人も驚いたという記述がある。
順慶町通は新町から心斎橋筋にはいる道筋にあるので、この夜店の賑わいが次第に南下し、江戸後期には戎橋まで連なる夜店でも有名であった。
「摂津名所図会大成」によると、その夜店は「呉服・木綿屋、家具調度、(中略)或ハ世帯の荒道具、神棚宮屋のとなりには仏具屋あり、 (中略)鮓店、野菜、菓子、饅頭・餅、煎餅に板行店、いふとも尽きぬ」。

せいもん払いはバーゲンのはしり

江戸時代の心斎橋筋の様子は、延享5年(1748)刊「難波丸綱目」に、「ぬり物屋、書物屋、古道具や、経師や、琴三味線、かざりや、其外諸商売多し」とあり、すでに買物の町であったことがわかる。
また、「摂津名所図会」(寛政10年/1798)の中に、「心斎橋筋呉服店松屋」(現在の大丸)と題する図があり、そこには老舗の呉服店の店頭での商いの様子とともに、バリエーションに富む人出が活写されている。現在の心斎橋筋の賑わいにも通じる光景があった。

 誓文払いの図
太物、こまものなどの商品名にまじり、正直と書かれた提灯も見える。

引札=ダイレクトメール

引札とは、商品広告や開店・大売り出しの宣伝などのため配られた印刷物(摺物/すりもの)。
今日のチラシ広告や、ダイレクトメールにあたる。
享保(1716~1735)以前は商品の品目や屋号を記しただけであったが、寛延・宝暦ごろに発達して、顧客の注意をひくような文章も作られるようになったといわれる。
それまでは、ただ店をあけて来客を待つだけの消極的なかたちから、引札の宣伝によって、積極的に客を呼び込もうと、さまざまな趣向を競い合った引札やビラ(心斎橋筋関係で現存するもののほとんどが明治期以降ではあるが)がそれぞれの店で作られた。

 仁寿堂西店 引札
仁寿堂はお香の老舗。
延宝年間(1673-1680)創業。

100年前の商品券

寿司切手は、発行した店に持っていけばすしと引換えてもらえる現在の商品券にあたる。
心斎橋では、すしの他にも饅頭・さがら麩などがあった。

 ふく本 寿司切手
ふく本(現在の本福寿司)は文政年間(1818-1829)の創業。
江戸時代の上方の味を伝えている。