心斎橋の変遷

  • 元和
    8年

    大坂の橋事情

    江戸時代、大坂の橋はほとんどが「町橋」といって、町人達が費用を懐から出し合って架橋、管理するものであった。
    公儀橋は街道筋の重要拠点や、大坂城への直接の連絡口にあたる12橋。江戸時代の、大坂三郷には200近くの橋が架かっていたので、それを維持できた町人の豊かさがうかがわれる。

    心斎橋の名前の由来

    「心斎系譜」によれば、長堀川を開削した4名のうちのひとり、岡田心斎は長堀川を開削した後、長堀心斎橋町に住まい、長堀川両岸に沿うこの町の往来の便のため、南北に橋を架けた。これが心斎橋の名前の由来である。
    元和8年(1622)長堀川の開削と同時に架けられたというのが有力な説である。
    当時の心斎橋は、長さ18間(約35m)幅2間半(約4m)の木橋だった。

    噺の魁 二編 天保15年(1844) 「噺の魁 二編」天保15年(1844)

    心斎橋自体をモチーフにした絵図は江戸時代にはあまり見受けられない。
    ここでは図の左に心斎橋の一部が見えるだけ。

    そのような断片的な資料を組み合わせ、協力者の指導の下、復元するとこういう形に。

    木橋 心斎橋 復元模型 木橋「心斎橋」復元模型

  • 明治
    6年

    明治の心斎橋は、ドイツより輸入され、明治6年(1873)に架橋された。

    明治期写真 明治期写真

    当時の大坂では鉄橋は珍しく、結構な話題になった。これをモチーフにした錦絵も数点現存している。

    浪花心斎鉄橋之図 貞廣画 「浪花心斎鉄橋之図」貞廣画

  • 明治
    42年

    橋も落ちよと集まる人出

    石橋心斎橋は、明治42年(1909)に完成。盛大な渡り初めが行われた。和製でありながら、 西洋の街の橋を意識した趣向を凝らした橋で、絵葉書もたくさん残っている。

    心斎橋の絵葉書 絵葉書「心斎橋」

    心斎橋の装飾の絵葉書 絵葉書「(御大典記念奉祝の大阪)心斎橋の装飾」

    大阪心斎橋の絵葉書 絵葉書「大阪心斎橋」

    大阪心斎橋改架竣工の絵葉書 絵葉書「大阪心斎橋改架竣工」

    心斎橋の絵葉書 絵葉書「(大阪名勝)心斎橋」

  • 昭和
    39年

    長堀川埋め立てのため、石の陸橋に

    昭和39年(1964)、長堀川の埋め立てのため不要になった心斎橋だが、陸橋の頂部に移築され、特異な構造・景観の橋となった。 渡り初めは昭和39年11月23日に行われた。映画「ブラック・レイン」中にもワンカットこの橋でのシーンがある。

    長堀川埋め立てのため陸橋になる

  • 平成
    9年

    レトロでモダンな街づくり

    平成9年(1997)、長堀再開発により、地下のショッピングモール「クリスタ長堀」が完成。
    このときに心斎橋の一部を再利用することになり、中央分離帯などに橋の欄干(部分)が使われ、モダンな地下街の上に、レトロな空間が出現。 橋の下には水も流れている

    レトロでモダンな街づくり